田沼意次といえば…「印旛沼の干拓」。学校の教科書でも、そう習った記憶がある人は多いんじゃないでしょうか。
でも改めて考えてみると、「なんで沼を干拓したの?」とか、「田沼と印旛沼って…沼好きなの?」とか、違和感だらけです。
Googleで調べてみても、「新田開発」や「治水対策」といった、平均点レベルの答えしか出てきません。

実は「印旛沼の干拓」は約300年にわたる大事業でしたが、田沼意次が関わったのは…ほんの一瞬。だから「田沼意次」だけを説明しても、全体像は見えてこない。
というわけで、今回は私自身が実際に現地を歩いて見てきたことも交えながら、300年にわたる印旛沼干拓の中で田沼意次がどんな役割を果たしたのかを、お話ししてみようと思います。
印旛沼はなぜ干拓する必要があったのか

まず整理しておきたいのが、「干拓」と「治水」は目的が違うということ。「治水」は洪水を防ぐための取り組みですが、「干拓」は沼や湿地の水を排水して農地にすることを意味します。
ただ印旛沼の場合、「洪水対策」と「新田開発」の二つを、「干拓」によって実現しようとした、というのが実態なんです。


江戸時代は、人口増加による食料不足の解消や、幕府財政の立て直しを目的として、日本各地で新田開発が進められました。
なので、埋め立てて水田にしやすい沼や湿地は、「新田開発用地」のターゲットになりやすかったんです。
一方、印旛沼は洪水時に利根川の水が逆流してきて、周辺では大きな浸水被害が繰り返されていました。





また、この逆流を防いだところで、大雨が降れば印旛沼自身の水が排水しきれず、内水氾濫(セルフ洪水)が発生してしまう。
つまり、利根川口に蓋(水門)をしても、沼の水を排水しても解決しないという…問題に悩まされていたんです。でも…流行りに乗って「干拓」はしたい。
というわけで、印旛沼では、利根川からの逆流を防ぐ「治水」と、水を排水して新田をつくる「干拓」の両方が求められたわけ。こうして約300年にわたる印旛沼の「干拓と治水の歴史」が始まりました。
2026年9月、台風25号による佐倉市の冠水被害の様子を、こちらの動画で紹介しています。

最初に印旛沼の干拓に挑んだ男たち

冒頭にも少し書きましたが、印旛沼の干拓は田沼意次が最初に始めた事業ではありません。ちなみに、当時は日本中で新田開発が奨励されてました。
たとえば、横浜の「吉田新田」。伊勢崎町などを擁する横浜のド真ん中ですが、ここは材木商の吉田勘兵衛らによって干拓された新田で、横浜の小学生はみんな学校で習います。
またこの地図をみてください。埼玉県杉戸町ですが…なにかを埋めたような形をしてませんか?
そう、ここも印旛沼と同じ頃、江戸の商人大島清兵衛らが干拓した「大島新田」。



このとき、安戸沼という沼が干拓され、地図から「沼」が消えました。つまり、この時代は技術や資金を持つ民間人が開発を担うことも珍しくなかったということ。
そんな時代に、印旛沼の干拓を幕府へ提案したのが、平戸村(現在の八千代市)の名主・染谷源右衛門です。
その計画は、印旛沼から江戸湾まで掘割(人工の川)を造り、「印旛沼の水を江戸湾に排水しちゃおう」というぶっ飛んだもの。

それでも幕府は支援しましたが、工事は資金不足や技術的な限界によって中断してしまいます。
ただ、幕府内でも印旛沼干拓という構想は消えず…、そして印旛沼干拓の計画は、後の田沼意次へ引き継がれます。
つまり田沼意次は、印旛沼干拓を始めた人物ではなく、難航して中断していたプロジェクトを引き継いだ人物だったというわけなんです。
田沼意次が印旛沼干拓で何をしたのか

染谷源右衛門がギブアップしてから約60年後、印旛沼干拓を再び動かそうとしたのが、時の老中・田沼意次。
当時の幕府は深刻な財政難に直面していて、新田開発によって年貢収入を増やすことが大きな課題になっていました。
同時に、印旛沼周辺では洪水被害も相変わらず続いていたので、田沼は食料増産と治水という二つの課題を一度に解決するには、「やはり印旛沼の干拓しかない!」と考えたわけ。


そんなわけで、すでに中断していた印旛沼干拓プロジェクトを引き継ぎ、田沼は自ら本格的に動かし始めます。その中で生まれたのが、利根川から印旛沼への逆流を防ぐ水門の構想。
私は現地を歩きながら、この構想「田沼ドア」と勝手に呼んでます。また工事には商人の資金も積極的に活用し、印旛沼だけではなく手賀沼も含めた大規模な干拓計画として進めました。
染谷源右衛門の時代は「民間人が主体の工事」でしたが、田沼意次が推進したことにより、印旛沼の干拓は「幕府主導の国家事業」として進められるようになったわけです。

でも工事は、残念ながら天明の大洪水によって壊滅的な被害を受けてしまいます。さらに田沼自身も失脚したことで、事業は再びの中断。
それでも、この時描かれた構想が消えることはなく、印旛沼の干拓はその後約200年にわたって受け継がれていくことになります。
印旛沼干拓はその後どうなったのか
田沼意次の後も干拓は約200年続いた

さて、田沼意次の失脚によって印旛沼干拓は再び中断しましたが、その後、この計画を引き継いだのが天保年間の老中・水野忠邦です。
ちなみに、この頃になると印旛沼干拓の目的は、「洪水対策や新田開発」だけでなく…、ちょっと毛色が変わってきます。
それは、外国船に江戸湾を封鎖された場合に備えた水運ルートの確保という、「国防上の意味合い」が加わったこと。

この工事では5つの藩が動員され、庄内藩は分水嶺を掘り抜く難工事を、鳥取藩は軟弱地盤との戦いを担当するなど、大規模な工事が進められました。



でも、この時も政治的な事情などから事業は完成には至りませんでした。それでも印旛沼の干拓は、この後何度も計画が引き継がれ、明治時代以降も挑戦が続きます。
そして1922年、利根川からの逆流を防ぐ印旛水門、つまり田沼意次が計画していた「田沼ドア」が完成。田沼が目指した逆流を防ぐ構想は、約140年後にようやく形になったというわけです。


さらに戦後には国営印旛沼・手賀沼干拓事業として「干拓」が本格化し、1969年、開始から約300年に及んだ印旛沼の干拓は、ついに完成を迎えました。
つまり田沼意次が関わったのは、その長〜い歴史のほんの一場面に過ぎなかった、ということなんです。
なぜ田沼意次だけが教科書に残ったのか

ここまで見てきたように、印旛沼の干拓は田沼意次一人が成し遂げた事業ではありません。
最初に挑戦した染谷源右衛門がいて、その後に田沼意次、水野忠邦、さらには明治、昭和の人々へと計画は受け継がれ、約300年をかけてようやく完成しました。
でも、私たちが学校で習うのは、なぜか「田沼意次と印旛沼干拓」という組み合わせばかり。

もちろん「老中」という立場や、「賄賂政治」のイメージが強く、教科書に登場しやすい人物だったことも理由でしょう。
でもそれ以上に大きいのは、印旛沼干拓を国家規模の事業として本格的に動かした人物だったからじゃないかな、と私は思っています。
残念ながら夢半ばで失脚してしまいましたが、田沼意次が大きく計画を前へ進めたからこそ、その後約200年にわたって事業が受け継がれていったとも考えられます。

ちなみに、私の祖母は田沼意次の城下町だった、静岡県相良の出身。でも祖母も母も口をそろえて言います。
「相良で田沼様の悪口を言う人は一人もいない」「あんな名君、他にはいないって、先祖から聞いてきた」と…。さすがに有能すぎて、色々疎まれたんですかね。
賄賂をもらうような人だったら…それが理由で失脚するでしょうけど、でも田沼意次は、賄賂をもらわなかったから失脚したんじゃないか、私はそう思ってます。
ま、田沼意次の城下町だった相良には、こんなお土産もあるけどね(笑)。
現地で気付いた印旛沼干拓の「もう一つの価値」



実は今回、印旛沼干拓について調べるために、干拓で生まれた農地のど真ん中を歩いてみました。そこで気付いたのが、とにかく交通量が多いこと。
京成酒々井駅から順天堂大学の前を通り、印旛日本医大駅まで約10km歩いたんですが、通り沿いは大型トラックや乗用車、バイクまでず〜〜〜〜っと常に走ってます。
景色はものすごく綺麗なんですが、AirPodsでノイキャンかけないと鼓膜破れるレベルのストレス度。最初は「ド田舎のくせに、なんでこんなに車走ってんだよ」と思ったくらいですが…。

でも、よくよく考えると当然です。干拓される前の印旛沼は、この一帯が巨大な沼だったわけで、当然道路なんて造れません。
でも干拓によって新しい土地が生まれたことで、千葉県北部と湾岸エリアを結ぶ道路を、この場所に通せるようになりました。
江戸時代の人たちは、物資を船で運ぶことまでは考えたでしょう。でも300年後に大量のトラックや車が、この干拓地をブンブン走り回る姿までは…想像できなかったんじゃないかなと思います。


結果的に印旛沼干拓は洪水を防ぎ、新田を増やしただけではなく、現代では物流や人の移動まで支える重要な基盤になっていた。
これは現地を歩いてみて初めて実感できた、印旛沼干拓のもう一つの価値だったように思います。
この日の様子はこちらの動画でも公開しているので、気になった方はぜひご覧ください。








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