忍城の水攻め。映画「のぼうの城」や教科書などで知った人も多いと思います。
埼玉県行田市にあった北条方の城で、豊臣秀吉による小田原征伐のとき、石田三成が約2万の大軍を率いて水攻めを行いましたが、忍城はわずか500人ほどで最後まで持ちこたえました。
ただこの話、やはりどこか引っかかります。水攻めは城を水に沈めてしまう強い戦術に見えるのに、なぜ落ちなかったのか。
この記事では通説として語られる「失敗の理由」を押さえつつ、実際に現地を歩いて地形を見たうえで、自分なりに考えた一つの仮説を、そのまま書いていきます。
忍城水攻めが失敗した理由とその違和感
忍城の水攻めが失敗した理由(通説)

忍城の水攻めが失敗した理由として、一般的によく語られるのは「水が思ったように溜まらなかったから」というもの。
豊臣秀吉による小田原征伐の中で、石田三成は忍城攻めの総大将となり、利根川の水を引き入れて城の周辺を水で囲む作戦を実行しました。
そのために築かれたのが、石田堤と呼ばれる大規模な堤防です。水で城を孤立させ、補給や移動を難しくして、城側の戦意を削ぐ狙いだったとされています。

ところが、実際には水が想定通りには溜まらず、本丸などの重要部分は水没せずに残ってしまいました。
その後、大雨によって一時的に水量は増えたものの、一方で石田堤も決壊し、攻めていた豊臣側にも被害が出たと伝わっています。
つまり水攻めによって忍城側を完全に追い込むことができず、開城にもつながらなかった。このため、忍城の水攻めは「失敗した」として語られることが多くなっています。
忍城の水攻めに残る「微妙な違和感」

ただこの通説は、やはり少し引っかかります。忍城は水に囲まれた「当時としては珍しい平城」で、守りが固かったのは確かでしょう。
ただ、それでも兵力差が大きすぎる。約2万の豊臣勢に対して、城側は500人。この差を考えると、豊臣勢は40人で1人を倒せば城側を全滅できるので、力攻めで落とせないとは考えられません。
ただ「忍城の水攻め」は、石田三成の発案ではなく、秀吉の方針として行われたとされています。

三成に武功を上げさせるためだったとか、関東の武士たちに豊臣の力を見せつけるためだったとか、そんな説明もよく見かけますが…。
忍城は北条一門が守る重要拠点でもなく、そんな城の攻略に巨額の工事費と時間をかけるというのは、一代で合理的に勝ち上がってきた秀吉にしては、ちょっと「おかしな判断」だったようにも感じます。
つまり、ここには「少し別の目的」があったように、見えてくるわけです。
水攻めという攻城戦術の正体とは
攻城戦術としての水攻めが持つ欠点

水攻めというと、強力な攻城戦術に感じてしまいます。城を水で沈めてしまえば、逃げることも反撃することも難しくなり、そのまま城は落ちるように感じてしまう。
ただ実際には、水攻めは短期決戦で勝つための攻城戦術ではありません。水で城を孤立させ、補給や生活を不便にして、時間をかけて相手を追い詰める戦い方です。
つまり「気持ち的に」相手の心が折れて、初めて効果が出る戦術とも言えるわけ。

逆に、籠城側がすでに討ち死に覚悟で城に入っている場合などは、城の外が水に沈んでも、「は?もう覚悟決めてるし」といった感じで、大きな効果が出ない可能性があったりする。
こうなると、むしろ巨大な水堀をプレゼントしてしまった状態に陥り、攻撃側は城に近付けなくなります。水攻めは成功すれば相手を精神的に追い込めますが、失敗すれば攻撃側も何もできなくなる。
だからこそ、戦術としてはメジャーにならなかったんでしょう。
水攻め名人の秀吉はどう使ったのか

ところで、そんな忍城の水攻めを指示した秀吉ですが、日本で行われた「有名な水攻め」の多くは、秀吉が関わっていると言われます。その中で一番有名なのが、備中高松城の水攻めでしょう。
まだ織田家臣だった頃の秀吉は、毛利家という大勢力と対峙する中で、備中高松城を水で囲み、城を孤立させました。ただ、この時も水攻めだけで城は落ちてません。
途中で本能寺の変が起き、秀吉は毛利家と和睦したうえで中国大返しを行い、明智光秀を討つために引き返しています。つまり結果だけ見れば、水攻めとしては決着がつかなかった形です。
ただこの頃の状況を考えると、秀吉は毛利家という大勢力を相手に、かなり厳しい立場にあったような気がします。

そこで水攻めによって備中高松城を沼のような状態にして、敵が簡単に攻め込めない状況を作り、時間を稼いでいたのではないか。
そして本能寺の変が勃発して京都方面へ戻る際、毛利勢に背後を突かれなかったのは、この「水攻めによる沼」が毛利勢の動きを制限した影響もあったはず。
そう考えると、秀吉はこのとき「水攻めの価値は相手の動きを封じることだ」と感じたんじゃないか ─ 私はそう思います。
忍城は「誰を止める」ためだったのか
東北の新参大名を制御する必要があった

忍城を水攻めした別の目的は、「秀吉が誰かの動きを封じたかったから」─ というのがこの記事のストーリーですが…それは誰なのか。私は、東北の新参大名だと思ってます。
小田原征伐は、全国の大名が集まる大規模な戦いでしたが、最初から完全に統制されていたわけではありません。
特に伊達政宗や最上義光、佐竹義宣といった東北の大名は、豊臣政権への服属がまだ浅く、どう動くかが読みにくい存在でした。

なので秀吉としては、状況次第では彼らが戦線を離脱したり、独自に動き出したりするリスクも考慮したはず。だからこそ、彼らを小田原にしっかり固定しておく必要があった。
そう考えると、行田という場所の重要性が見えてきます。
当時の行田は、利根川(家康による東遷前なので、ざっくりいうと現在の『江戸川』)を越えて関東平野に入るための重要な通り道で、軍勢がまともに動ける数少ないルートが集まる要衝でした。

ここを水攻めで沼にしてしまえば、北からの流入を抑えられるだけでなく、小田原にいる大名たちの「地元へ帰る」という選択肢も奪えます。
さらに「行田が水没して通れない」という噂が広まれば、それ自体が心理的なブレーキになる。
そう考えると、忍城の水攻めは城を落とすためというより、軍勢の動きを制御するためとして機能していた可能性が見えてきます。

ちなみに、行田は足袋の産地としても知られてますが、こういった人の動きが集まりやすい場所だったことを考えると、当時の動線としても一定の存在感を持つ場所だったと、考えられるかもしれません。
現地を歩くと見えてくる意外な結論
石田堤を現地で見ると本音がわかる


ところで、実際に行田の街を歩いてみると、この水攻めのイメージはだいぶ変わります。まず感じるのは「行田は思ったほど低湿地じゃない」ということです。
三成が本陣を構えた「丸墓山古墳」は小高い場所ですが、行田は全体的に高低差もなく、水田として利用されている場所が少し低地になっている程度で、街全体に水が溜まりそうな地形には見えません。
また石田堤は城をぐるっと囲むものではなく、南側をU字型に囲むような構造です。



総延長14kmとも28kmともいわれますが、すべて人工で作ったわけではなく、自然堤防の切れ目をつないで「閉じる」ような作りになっていて、実際に築いたのは4km前後という説もあるそうです。
となると、水は広く深く溜まるというより、浅く広がる形になるはずです。しかも堤防の高さが水位の上限になるので、北側にある忍城本丸は構造的に「最初から水没しない位置」にあります。
実際、石田堤が決壊した箇所とされる「堀切橋付近」はU字の一番底の部分。ここに水圧が集中すれば、当時の土木技術では決壊するのも自然なことだと思えてしまいます。

忍城の水攻めは「成功だった」のかも

ここまで見てくると、そもそもこの水攻めを「失敗」と言い切っていいのか、少し見方が変わってきます。
三成は秀吉の意図を汲み取るタイプの人物ですし、無理に工事を拡大するより、「水攻めしてる状態」の拡散を優先した可能性もあります。
実際、忍城側も「豊臣勢がガチ攻め」してこなかったからこそ、持ちこたえたのかもしれません。

結果として、「攻めない豊臣側」と「様子をうかがう忍城側」で膠着状態が続きましたが、その間に「行田が水攻めで通れないらしい!」という噂だけは拡散していきます。
そして結果的に、秀吉は忍城の水攻めによって小田原征伐を成功させ、最終的には伊達も最上も佐竹も配下に組み込んでしまった。
こう考えると、忍城の水攻めは「戦略的には成功だった」と言えるのかもしれません。


ちなみに、私の仮説をもう一つ。現代の地形を見る限りでは、忍城の水攻めは「すっごい地味」だったと思います。
だって、豊臣勢が本気で「忍城本丸を水没させる気」だったら、忍城より下流側にあたる丸墓山古墳に本陣を置くのは不自然です。下手をしたら、自分たちが水に飲まれてしまう位置ですから。
適度にやる。その辺がさすがです…三成さん。

※本記事には、現地観察や地形をもとにした筆者の考察を一部含みます。







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