京都人から言われた何気ないひと言が、なぜか引っかかってモヤモヤする ― そんな経験がある方に向けた記事です。
特に「皮肉っぽい」「嫌味に聞こえた」など…、イラッとする「あの一言」の理由を深掘りします。
「なんであんな言い方するの?」という疑問、その答えは、京都という街の構造や、歴史にヒントがありました。
読み終えるころには、そのムカムカが「なるほど、そういうことか」と納得に変わるかもしれません。怒りが少し落ち着いて、自分の中のモヤモヤに言葉を与えられる、そんな内容になっています。
京都人が「皮肉」っぽい言い方をする理由

京都人の言い方が「皮肉っぽい」と感じるのは、話し方そのものに京都特有の文化があるからです。
京都では、ストレートに否定したり強い感情をぶつけたりするのは、あまり「良いこと」とはされてません。ちょっとした違和感や不満も、やわらかく遠回しに「含ませて」伝えるのが普通です。
ただ、それが表向きには丁寧に聞こえても、実は否定や距離感が含まれてたりする。そういう「言葉と本音のズレ」が、受け取る側には「皮肉」や「嫌味」として刺さってしまうことがあるわけです。
ただ、京都人が意識的に「嫌味」を言ってるわけではなく…、どちらかと言えば「相手と揉めないようにするため」に身についてしまった言い回し。
だからこれは「個人の性格」というよりも、「京都人の話し方のルールみたいなもの」だと考えたほうが、納得しやすいかもしれません。
京都で「含ませる話し方」が定着した理由

では、なぜ京都でそんな「含ませる話し方」が根づいたのか?については、「街の成り立ち」が大きく影響しています。
知っての通り、794年に都が置かれて以来、京都にはずっと人が集まり続けてきました。
人の出入りは多くても、土地や商売、人とのつながりといった関係はずっと変わらず続いていく ― そんな固定された街のなかで、ぶつかり合いはできるだけ避けたいもの。
もし関係がこじれてしまえば、ずっと後世まで引きずる可能性があるからです。
だからこそ、京都では正面から否定したり、きつく物事を言うよりも、「含ませる話し方」で伝えて場の空気を保つという形が定着してきたわけです。
これは単なる文化というより、人間関係を長く保つための「生き残り術」と言えるのかも。揉めずに伝える、その言葉選びが日常の中に溶け込んでいったわけです。
なぜ京都だけが「含ませ文化」になったのか
奈良や東京に「含ませ文化」が育たない理由

納豆(710)美味いぞ平城京 ─ 奈良は京都よりも前から都だった街ですが、平安京への遷都で政治や文化の中心は京都へ移り、その役割は早い段階で終わりました。
風情ある古都として今も人気はありますが、人のつながりや商売の土台が継続して残るような街ではなくなった。それに対して東京は、徳川家がゼロから設計した「計画都市」。
もともと文化や関係性の蓄積がなく、今でも人の入れ替わりが激しい「関係性が続きにくい街」。だからあえて言葉を濁したり、関係を守るために言い回しを工夫したりする必要がなかったわけです。
筆者は東京のド下町、足立区民ですが…、「含ませ文化」は聞いたことがありません。
逆に東京には「下町言葉」というのがあったりしますが、せっかちで喧嘩好きな江戸っ子は「含ませて伝える」なんて雅な言葉遊びは…、しません。


実は大阪にも存在する「含ませワード」とは

ただ、実は大阪には「含ませ文化」が存在します。たとえば「儲かりまっか?」という定番のあいさつですが…、仮に儲かっていても「ぼちぼちでんな」と返すのがお約束。
「儲かってまんねん!」などと答えたら、「ほな奢ってや!」になりかねない。道を聞かれた時も「あの交差点を左へ曲がってドーン行ったらガーン行ってギューんや!知らんけど」が一般的。
これも、自分が案内したルートが間違っていても「責任が取れない」という心理が、「勢い」と「知らんけど」に現れています。
つまり、大阪人は損を避けるために「含ませる」、というか…「あえてぼかす」。京都が人間関係の摩擦を避けるための言葉なら、大阪はお金や人づきあいで損をしないための知恵。
使ってる言葉のスタイルは違っても、それぞれの街に合った「生き方の工夫」があるということなんですね。








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