「だるまって実は由来が怖いらしい」「なんで片目しか描かないの?」そんな疑問を持ったことがある方に向けて、この記事では“だるまの由来と意味”をわかりやすく解説します。
達磨大師の伝説や独特な目の書き方から縁起物としての意義まで、知られざる背景と現代的な捉え方を交えてご紹介。
怖いと感じるのも自然な反応。でも本質を知ることで、だるまの印象が変わるかもしれません。読み終えたとき、あなたなりのだるまとの付き合い方が見えてくるはずです。
「だるまの由来が怖い」って、どこからそう言われるようになった?
手足が腐るまで修行した“達磨大師”のヤバすぎる伝説

だるまの「怖さ」の出発点は、モデルとなった達磨大師(だるまだいし)の伝説にあります。
達磨大師は禅宗の祖として知られていますが、もっとも有名なのは「9年間、壁に向かって座り続けた」というエピソード。
その結果、まったく動かずにいたことで手足が壊死したという衝撃の逸話まで残っています。しかもこれ、自発的にやったという点がすごい。
誰かに命じられたわけでもなく、ただひたすら精神修行として極限に挑んだ姿が現代人からすると“信仰”というより“狂気”に映るのも無理はありません。
だるまのフォルム=手足のない姿はここに由来しており、「怖い」と感じる人がいても何も不思議ではない歴史があるのです。
片目だけ描いて放置…この風習、冷静に考えて怖くない?

だるまの使い方として広く知られているのが、「願い事をするときに片目だけ描く」という風習。残りの片目は願いが成就したときに描き足すことになっています。
つまりだるまは“片目のまま”長期間こちらを見守り続ける存在になります。実際、1年経っても願いが叶わなければ、ずっと片目のまま年を越すことも珍しくありません。
冷静に考えて、無言で片目でこちらを見続けてくる置物って結構ホラーじゃないですか?
もちろん縁起物として受け入れている人が多いですが、「風習だから」で済ませてしまうその感覚こそ、実はちょっと怖いのかもしれません。
何となく続けていることの中にこそ、無意識の違和感が潜んでいる場合もあります。
「お焚き上げで燃やす=怖い」は完全な誤解

だるまの「怖い」と言われる理由のひとつに、「最後は燃やす」という儀式的な行為があります。
たしかに炎の中で燃えるだるまの姿は印象的で、初めて見た人は“呪術的なもの”を連想してしまうかもしれません。でもこれは完全な誤解です。
だるまはお守りや破魔矢と同じく、“願いを託して使ったもの”としてお役目を終えたあとに感謝とともに供養するのが本来の意味。
お焚き上げは「感謝+浄化+区切り」を意味する清めの行為です。寺院での厳かな雰囲気や、燃え上がる炎の演出が「怖さ」を助長しているだけで、本質はむしろ“静かで神聖な儀式”です。
だからこそ怖がるよりも「ありがとう」と送り出す気持ちで向き合うのが本来の姿です。
怖がるのは間違ってない。でも全部が怖いわけじゃない
だるまが“顔だけ”なのは意味がある。でも怖く見えるのも自然

だるまが“顔だけ”の形をしているのは、実はきちんとした意味があります。
これは達磨大師が壁に向かって座禅を組み続けた姿勢に由来しており、手足のない姿は「七転び八起き」「不屈の精神」を象徴したものです。
しかしそういった由来を知らずに見ると、手足がなくて無表情、動かずに片目だけが描かれている置物は確かに少し不気味に映るかもしれません。
怖く見えるのは感性の問題であり、由来を知っていても「なんか怖い」と感じるのは自然な反応です。「意味があるから怖くない」という理屈で気持ちを押し殺す必要はありません。
だるまは“ありがたいもの”であると同時に、“ちょっと怖い存在”でもある。この両立を許してくれるのが、実はだるまの懐の深さなのかもしれません。
実は縁起物。だるまは“願いを託す存在”です

だるまが怖いと感じる人も多い一方で、その存在は本来「縁起物」です。商売繁盛、家内安全、選挙の当選祈願、合格祈願 ─ だるまは昔から、人の願いを託す“願掛けアイテム”として使われてきました。
赤い色は魔除けや病気除けの意味を持ち、見た目以上に意味の詰まった伝統的な形でもあります。
片目だけ描くのは「願いが叶うまでずっと見守っていてください」という意味であり、決して“放置”ではありません。
むしろ「願いが叶ったら両目を入れる」というプロセス自体が、目標達成への区切りとして働いています。
文化や背景を知ることで「怖さ」のイメージが「ありがたさ」に変わる ─ そんなこともあるのが、だるまの奥深さと言えます。
怖い文化に“思考停止”で乗る方が実はちょっと怖い

だるまを「怖い」と感じるのは自然なことですが、もっと怖いのはその怖さをよく知らないまま“ありがたいもの”として受け入れている私たち自身かもしれません。
意味も由来もわからないまま「縁起物だから」「習慣だから」と何となく飾り、何となく片目を入れて、何となく燃やす ─ それって本当に意味がある行動でしょうか?
信仰や文化に“思考停止”で乗っかるのは、知らず知らずのうちに「信じさせられている」状態に近いとも言えます。
だるまを怖いと感じるのも、ありがたいと感じるのも自由。でもどう向き合うかを自分で考えて選ぶことが、これからの時代には必要です。
だるまに限らず、文化とのつき合い方は「感じ方」より「選び方」の時代に入っている思います。
私は20年間、だるまを愛し続けてきた
正月に買い、日を選び、背中に想いを書いてすぐ両目を入れる

筆者はかれこれ20年、毎年正月になるとだるまを買い続けています。買うタイミングは元旦ではなく、少し落ち着いた日を選んで「今年もよろしく」と言いながら迎え入れるようにしています。
背中にはその年の抱負や、自分に向けたメッセージを書くのが恒例。家族用、仕事用、自分用と3体用意する年もあり、それぞれに願いやテーマを分けています。
そして片目だけ入れるという風習は採用せず、購入時点で両目をしっかり描き入れます。
「最初から信じる」「最初から見守ってもらう」という気持ちで、毎年フル装備のだるまと共にスタートするのが、もはやライフスタイルの一部になっています。
願いを叶えたら目を描く…この構図がどうにも苦手

だるまの風習として「願いを叶えてくれたら、もう片方の目を描いてあげる」というスタイルが主流ですが、私はどうしてもこの構図に馴染めません。
なぜならそこには、“願いを叶えてくれたら見返りを与える”という上下関係のようなものを感じてしまうからです。だるまはただの置物ではなく願いを託す対象であり、自分を支える存在。
ならば最初から「両目で見ていてほしい」「信じてるからね」と伝えたいと思うのが自然です。
ご利益信仰やお願い成就型の考え方よりも、「最初から全幅の信頼を寄せて並走する」ような関係性の方が私にとってはしっくり来ます。だからこそ、私はだるまに対して“両目先入れ派”を貫いています。
だるまは「怖い」かどうかじゃない。「どう向き合いたいか」

だるまに怖いイメージを持つのは当然です。由来には極端な修行の逸話があり、見た目もどこか異質で、飾る場所によっては不気味に見えることもあります。
でもそれは“そういうストーリーがくっついている”だけであって、本質ではありません。
だるまは「どう付き合いたいか」を自分で選べる珍しい存在です。願いを込めて、両目を入れて、燃やして送り出す人もいれば、片目のまま棚に置き続ける人もいる。
そこに正解・不正解はなく、宗教や信仰のように押しつけられることもない。「だるまってどう信じたい?」と自分自身に問いかけながら使えるのが、だるまの一番優しいところなのかもしれません。
まとめ

だるまに対して「ちょっと怖い」と感じる気持ちは、決して間違いではありません。
伝説の由来や慣習の中には現代人の感覚では受け入れがたい部分も多く、見た目や扱い方から不気味に映ることもあります。
でもその“怖さ”は無知や誤解だけでなく、自分自身がどう向き合うかを考えるきっかけにもなります。
だるまは単なる縁起物でも呪術的な存在でもありません。「信じたいように信じられる」─ それがだるまの本質です。
意味や背景を知ることで怖さは薄れ、同時にありがたさや奥深さがじわじわと広がってくるはずです。
だるまをどう感じるかは自由。でもせっかく出会ったなら、一度くらい本気で向き合ってみてもいいのではないでしょうか。
編集後記

いやー、ハマってますね。
実は私、子どもの頃から無類のだるま好き。きっかけは小さい頃にやっていたゲームの“敵キャラとして登場していただるま”。倒す側なのに、あの赤いフォルムと佇まいに思わず一目惚れしてしまったのが始まりでした。
当時はだるまを買う文化なんて周囲になかったけれど、大人になってから西新井大師で初詣ついでにだるまを買うようになり、もうかれこれ20年。今では自宅用・仕事用・個人用と3体お迎えして、毎年袋から出すタイミングもお日柄を選ぶ徹底ぶり。
こだわりは「うるうるお目目」にして描き入れること。ごつい顔にしちゃうと怖いからね、1年間一緒に過ごす相棒としては、やっぱり可愛い方がいい。
抱負を書き、目を入れ、向き合う。それが習慣になってから、個人的には不思議なくらい仕事がうまく回っている気がしています。
だるまが怖いかどうかは人それぞれ。でも“どう付き合うか”は、自分で決めていいんです。この記事を読んで、ちょっとでもだるまと仲良くなれそうだと思った方がいたら、それだけで嬉しいです。
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