さきたま古墳群について調べてるとき、「これって誰のお墓なの?」って気になった人も多いんじゃないでしょうか。
……まあ、こんなこと調べてるのって、どうせ埼玉県民ですよね。他県の人は、こんなこと気にならないし…。
ちなみに、このことをGoogleで検索しても、「特定されてないので分かりまて~ん」とAIが一瞬で答えてくれます。

おいおい、アホかお前💢 それじゃ物足んねえんだよ。ちゃんとしろよ、Google!って思っちゃうのは…私だけでしょうか。
というわけで、今回は実際にさきたま古墳群と、行田の町を歩いて感じたことを交えつつ、「あの古墳で何があったのか?」についてまとめてみました。
さきたま古墳群は誰のお墓なのか

結論から言うと、さきたま古墳群が誰のお墓なのかは、残念ながら分かってません。
まあ、ここまではGoogleのAIが言ってることと一緒なんですが…、でも、それだけで終わらせちゃうと物足りないので、もうちょっと踏み込みます。
さきたま古墳群は天皇のお墓ではなく、このあたりを治めていた有力者のお墓だったと考えられてます。

教科書では「豪族」という言葉で習ったと思いますが、有力者って言われても、あんまりピンとこないですよね。イメージ的には、この辺りの殿様みたいな存在だと思えば、だいたい合ってます。
さきたま古墳群は、そんな豪族の中でも、この地域を代表する有力な勢力が築いた古墳群だったと考えられていて、その根拠の一つになっているのが、稲荷山古墳から見つかった鉄剣です。
この鉄剣にはヤマト王権とのつながりを示す内容が刻まれていて、当時の埼玉が中央とも深くつながっていたことがうかがえます。

あれ…もう寝てる?……はい、バチクソつまんないですよね(笑)。
まあ、細かい話はどーでもいいとして…。つまり、さきたま古墳群は、当時の埼玉を治めていた「偉いオッサンのお墓」というわけです。
古墳なのに天皇のお墓じゃないの

でもここで気になるのが、「古墳って、天皇の墓じゃないの?」という疑問です。
実際、私もそう思ってました。だって歴史の教科書を開くと、仁徳天皇陵とか、なんちゃら天皇陵とか…よく知らんけど、天皇の墓として巨大な古墳がたくさん出てくるから。
そのイメージが強いから、「古墳=天皇のお墓」と思っても無理はありません。でも実際には、全国の古墳すべてが天皇のお墓というわけではないんです。

時は古墳時代。まだ日本全国を一つにまとめるような勢力はなく、各地には地域を治める有力者、いわばその土地の殿様、「豪族」と呼ばれる人たちがいました。
そして近畿地方のヤマト王権が少しずつ力を広げる中で、各地の有力者もその勢力と関係を築き、中央で流行してた「古墳文化」も全国へ広がっていきます。
ん…?また寝てるでしょ。

あのねえ、当時は近畿地方が「現代でいう渋谷」なの。つまり、近畿地方で「古墳」が映えたら、ダ埼玉の豪族だって「オラも古墳造りたいぞ〜」ってなるわけ。
だから「さきたま古墳群」も、その流れで築かれたと考えられてるんです。なんか…、埼京線で渋谷に出てくる現代と同じ気が…ゴニョゴニョ…。
さきたま古墳群が歴史に登場した瞬間

ところで、さきたま古墳群が歴史上で一番有名になる場面といえば…、やっぱり「忍城の水攻め」じゃないでしょうか。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成は、さきたま古墳群にある丸墓山古墳に本陣を置き、忍城を包囲しました。
この話はすごく有名ですが、実際に現地へ行ってみて、私は一つ気になったことがありました。当時の豊臣秀吉は、すでに関白。朝廷の最高クラスの官人です。

そして石田三成も、朝廷から官位を授かっていた人物でした。そんな人たちが、もし丸墓山古墳を天皇のお墓だと考えていたら、そのお墓を足で踏みつけるように本陣を置いただろうか…と。
もちろん、これを裏付ける史料はありません。なので、あくまで私個人の考察です。ただ少なくとも、当時の彼らは、この古墳を天皇陵とは考えていなかった可能性があるんじゃないか。
地方豪族の墓、あるいは朝廷に敵対した勢力の墓という認識だったからこそ、本陣として利用することに抵抗がなかったのかもしれません。

現地に立って丸墓山古墳を眺めていると、そんなことまで思えてきます。教科書には載ってない「なぜ?」を想像してみるのも、「歴史の面白さ」です。
ま、Googleはこんなこと…、教えてくれないけどね。








コメント