日本海海戦で日本の連合艦隊を率いて、ロシアのバルチック艦隊と戦った東郷平八郎。
彼が勝てたのは「運が良かった」から ─ SNSやWikipediaで目にするこの逸話に、なんとなく引っかかりを感じた人に向けた記事です。
本当に「運の力」で歴史に名を刻めたのか? それとも「偶然を必然に変える力量」があったのか?
この記事では、日露戦争の時代背景から日本海海戦に至るまでの流れを辿りながら、東郷の「運」と「判断」の境界線を探っていきます。
読めば「英雄」という言葉の裏にある現実の重みが、ちょっとだけ見えてくるはずです。
東郷平八郎は「運がいい男」だったのか?

連合艦隊。それはサッカーで例えると、日本代表チームのようなもの。
普段は「第一艦隊」「第二艦隊」のような艦隊がたくさんありますが、いざ外国と戦うとなった場合は、複数の艦隊からの選抜メンバーで組織した「連合艦隊」という代表チームを作ります。
その代表チームの監督にあたる「連合艦隊司令長官」に、東郷は「運がいい男だから」と言われて選ばれた ─ そんな逸話が残っています。
これはWikipediaなどにも載っている話ですが、出典が一次資料で確認できないため、「事実なのか?」はちょっと微妙なところ。
とはいえ、東郷の戦歴を見れば…、偶然としか思えないような巡り合わせが「何度も」起きています。彼は本当に「幸運だった」のか。それとも「実力で打ち勝った」のか。
この記事では日本海海戦を軸に、東郷平八郎という人物の「運の実像」に迫っていきます。
日本海海戦が起きた時代の日本とロシア
当時のロシアは日本を狙っていたのか?

日露戦争が勃発したきっかけは「ロシアが日本へ侵略しようとしていたから」というイメージを持ちがちですが、実際には少し事情が異なります。
当時、ロシアの関心は主に中国大陸の奥地、特に満州や朝鮮半島の権益です。海を渡って日本列島を占領するような計画は、明確には存在していませんでした。
もし日本列島に攻め込むつもりなら、極東艦隊を早い段階で増強するはずです。
でも、実際には小規模な艦隊を旅順要塞などに配置し、日露戦争が始まっても要塞に引きこもって防戦に徹するなど、極東艦隊は消極的な姿勢が目立ちました。
つまりロシアが重視していたのは大陸側の拠点であって、日本列島にはあまり関心を示していない。
こういった状況の中で、日本は「このままでは大陸の権益をロシアに奪われる」という危機感を抱き、やむなく開戦に踏み切った…、というわけです。
バルト海の艦隊がなぜ日本海まで来たのか

さて、バルチック艦隊がはるばる日本海までやって来たことは有名ですが…、「なぜそんな遠くの艦隊が来たのか?」についても考えておきましょう。
バルチック艦隊は、本来バルト海を守るための艦隊です。当時のロシアには、このほかに黒海艦隊と極東艦隊がありましたが、黒海艦隊は地政学的な理由で黒海を出られません。
極東艦隊は小規模で、日露戦争が始まって間もなく、日本海軍によって壊滅させられました。つまり、ロシアでは「極東で何かあったらバルチック艦隊を派遣する」というのが既定路線だったわけです。
そして実際、「その何か」が起きました。それは極東艦隊の壊滅です。これはロシアにとって、日本海・黄海・東シナ海の制海権を失った「無防備な」状態。
バルチック艦隊が日本海へ派遣された理由は、この「丸腰状態を何とかするため」だったのです。
決戦の地を「対馬海峡」に賭けた東郷

日本海のロシア極東艦隊が壊滅したため、バルチック艦隊が到着するまでの間、連合艦隊には「ちょっとした時間」ができました。
この間、連合艦隊は艦船をドッグに入れてメンテナンスしたり、猛特訓を行ったりして、決戦に向けた準備を進めています。
そしてついに「その時」が近づきますが…、日本側にとって最大の問題は、バルチック艦隊が「どこを通るか分からない」こと。想定ルートは三つで、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡です。
結果的には「対馬海峡」に賭けた東郷が大当たりを引いたわけですが…、別に「当て勘」だったわけではありません。
宗谷海峡は距離が遠すぎる、津軽海峡は日本側が機雷敷設によって封鎖済みだったなど、根拠に基づいた判断でした。
ここまでの経緯を見てみると、勝てた理由は「東郷の運」というより、「入念な準備と戦略」にあったと分かります。
日本海海戦で見る東郷平八郎の実像
日本海海戦はなぜ日本側が圧勝したのか?

そしてついに「その時」。この海戦で日本が圧勝できたのは、砲術と艦隊行動の違いが決め手です。
特に象徴的なのが、「東郷ターン」と呼ばれる敵前回頭。連合艦隊は、敵の正面であえて向きを変えるという大胆な動きを取りました。
この間、連合艦隊は完全に「無防備」な状態でしたが、ロシア側の砲撃はほとんど当たっていません。それは正面の敵は的が細く、そこから回頭されても軌道が複雑なため、照準を合わせづらかったから。
加えて、艦船は左右への砲撃が得意で、正面方向の相手に対しては火力を集中して発揮しにくい構造も影響しています。連合艦隊は回頭を終えると、整然と集中砲火を開始。
一方のバルチック艦隊は指揮が乱れ、艦ごとの応戦にとどまります。迎撃に向けて準備万端の日本と、やり過ごしたかったロシア ─ この温度差が、勝敗を決定付けました。
バルチック艦隊はなぜ完敗してしまったのか?

バルチック艦隊が完敗してしまった理由は、艦隊そのものの構成と、長い航海が大きく影響しています。
バルチック艦隊は、小さなバルト海周辺の防衛を目的として編成された艦隊で、遠洋航海や大規模な艦隊決戦には不向きな構成でした。
そんな艦隊が、半年以上にわたる「長い航海」を経て、日本海という未知の戦場に辿り着いたことで、物資不足・整備不良・士気低下など様々な問題が噴き出します。
さらに航海中にイギリスの民間漁船を誤って攻撃してしまった「ドッガーバンク事件」によって英国の港湾を利用できず、補給面でも追い詰められ、十分な速度が出ていなかったといいます。
まさに満身創痍 ─ 早くウラジオストクに入港して休みたい。そんな状況なのに、整った編成・練度・士気を持った連合艦隊に地元の日本海で迎撃されたら…、完敗するのも当然です。
東郷平八郎は「運の使い方」が上手い提督

東郷が乗船していた、連合艦隊の旗艦「三笠」。あまり知られていませんが、日本海海戦で大勝をもたらして佐世保港に凱旋した直後、火薬庫の爆発事故で沈没しています。
東郷は無事でしたが、この事故は多くの犠牲を出しました。その後の東郷平八郎は?と言うと…、表舞台に大きく姿を現すことはなく、現場を退いていきます。
年齢の問題もありましたが、それ以上に「あの海戦」にすべてを賭けた提督だったと言えるかもしれません。
日本海を戦場に選び、敵の動きを封じ、すべての準備を整えた上で迎撃した戦い ─ その戦略の精度は、偶然ではなく明確な意思と構想に裏打ちされたものでした。
たしかに「運」に助けられた場面もあったでしょう。ただ、それを活かすべき局面で全てを使い切った。その「生き様」こそ、東郷平八郎という人物と言えるかもしれません。








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