不忍池は怖い?:弁天堂のスピリチュアルな空気を現地検証してみた

不忍池は怖い?:弁天堂のスピリチュアルな空気を現地検証してみた 沼レポ

「不忍池って、なんか怖いらしいよ?」そんな噂を目にした人に向けた現地検証記事です。

カップルが別れる、スピリチュアルな空気がある、弁天堂には何かがある ─ 本当にそうなのか、実際に足を運んで確かめてきました。

この記事では不忍池の実際の様子、弁天堂に集まる謎の供養碑の意味、そして“怖さ”が生まれる構造までを丁寧に掘り下げています。

読み終えたとき、あなたが感じていた「怖い」の正体が場所ではなく“人間の都合”かもしれないことに気づけるはずです。

 

不忍池は本当に怖いのか?現地で確かめてみた

昼の不忍池は平和すぎた

昼の不忍池は平和すぎた

実際に現地を歩いてみて最初に感じたのは、「怖さ」よりもむしろ“開けた平和さ”でした。不忍池は上野のど真ん中にあり、周囲は道路と住宅、商業施設に囲まれています。

昼間の池まわりは観光客や地元の人、外国人観光客でにぎわっていて白鳥ボートも元気に稼働中。

SNSなどで囁かれる「怖い」印象とはまったく違って、どちらかといえば“騒がしいくらいの賑わい”です。水面にはカルガモがぷかぷか浮かび、弁天堂の前では参拝の列ができていました。

全体的に視界が開けていて空気感にも不気味さはゼロ。少なくとも昼間に限っていえば噂の“怖さ”は拍子抜けレベル。ただの明るい、よく整備された都市公園です。

なぜ「カップルは別れる」のか

なぜ「カップルは別れる」のか

不忍池には「カップルで行くと別れる」という噂があります。その由来として語られるのが、池の中央にある弁天堂に祀られている“弁財天”の存在です。

弁財天は恋愛の神ではなく芸能・財運・芸術などを司る神格で、本来は「個の魅力」や「表現力」を引き出す神様です。

ただ江ノ島や厳島神社など、他の弁財天ゆかりの地でも「カップルが別れる」という俗説があり、それが不忍池にも広がったと考えられます。

また池の中心に孤立した弁天堂という“構造”が無意識に「別れ」や「分岐」を連想させるのかもしれません。恋愛運そのものではなく“分かれ道”を象徴する場として、この噂は語られ続けているのです。

なお、不忍池でカップルが別れると言われる理由や、そうならないための対策についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

不忍池(上野公園)ボートデート:スワンボートを楽しむ前に知っておくべきコト
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怖さの正体は“違和感”だった

怖さの正体は“違和感”だった

不忍池に立っていて「ここが怖い」と感じるような明確な要素はほとんどありません。それでも、なぜか「怖い場所」と語る人が後を絶たない ─ その理由は“異常”ではなく“違和感”なのかもしれません。

池の真ん中に建つ弁天堂。そしてその周囲に鳥塚・包丁塚・すっぽん塚・暦塚など、供養碑が異様な密度で並んでいる光景。どれも日常で消費されていく命や道具の痕跡たちです。

それなのに、池の周りでは観光客が記念写真を撮っていたりして“死とレジャー”が同じ空間で共存している。

怖いというより脳が理解しきれないバグ。意味がつかめないことそのものが、不気味さにつながっているのかもしれません。

 

弁天堂に漂うスピリチュアルな気配

祀られすぎた供養空間

祀られすぎた供養空間

弁天堂に足を踏み入れてまず驚かされるのは、あまりにも多くの“塚”が密集していることでした。

鳥塚、包丁塚、すっぽん塚、暦塚、魚塚…祀られている対象は動物だけでなく、調理器具や暦のような道具にまで広がっています。

これらの碑は、主に業界団体や関係者が「日頃お世話になっているもの」に感謝を示す目的で建立したもの。つまり、日常の中で消費された“痕跡”が集められた空間なのです。

ここまで多様な供養碑が一カ所に集中している神社仏閣はかなり珍しく、弁天堂が単なる観光地ではない、なにか重さを背負っている場所だと感じさせます。

供養されすぎている空間が放つ違和感 ─ それが不忍池の静けさとは別の“圧”の正体かもしれません。

「餌やり禁止」の看板にゾッとした

「餌やり禁止」の看板にゾッとした

鳥を供養するための「鳥塚」のすぐ横に、「鳥や猫に餌を与えないでください」という貼り紙がありました。この光景には思わず二度見するような衝撃があります。

感謝して祀っているはずの対象に対して、現実の生き物は「触れるな」「関わるな」という扱い。

まるで石碑の中にいる“理想の鳥”だけを大切にしていて、目の前にいる生き物たちは“管理すべき対象”になってしまっているようでした。

祀る側の気持ちよさと現実の扱いのギャップ。そのねじれこそが、供養の本質を揺らがせる。弁天堂の“空気の違和感”は、こんなふうに人間の都合が可視化されてしまっているからかもしれません。

祈り?それとも呪い避け?

祈り?それとも呪い避け?

弁天堂に立ち並ぶ供養塔の数々を前にすると、「これは祈りなのか、それとも呪い避けなのか?」と戸惑いが生まれます。

包丁やすっぽん、鳥、カレンダーなど、“使ったもの・食べたもの”がずらりと祀られていて、たしかに感謝の表現には見える。

でも同時に「ここで祀っておかないと、何か起こるかも…」という防衛反応のような気配も感じられるのです。

“ありがとう”ではなく“許してください”に近い、ちょっとズルい祈り。祀ることで自分を安心させる、自己都合の供養。

表向きは丁寧で立派でも実態は“人間の納得のための儀式”に見えてしまったとき、この場所の空気が一気に変わって見えました。

本当に怖いのは“立っている自分”だった

食べて、忘れて、祀って終わる構造

日々の暮らしの中で、私たちは多くの命や道具に支えられています。

鶏肉、魚、包丁、時計 ─ それらがなければ生活は成り立たない。でも使った後や食べた後、それを意識することはほとんどありません。

弁天堂に並ぶ供養碑は、そうした“日常の裏側”を可視化しています。忘れられたはずのものが、ここでは“ありがとう”と共に石に刻まれている。

でもその行為は、感謝というより「忘れるための儀式」に近いのかもしれません。

消費して、忘れて、祀って終わらせる。その流れがあまりにも自然に組み込まれていることに、不忍池の静かな怖さがあると感じました。

何も異常はない。でも気づいた瞬間、どこか胸に残る違和感がありました。

祀るのは「利用した側」の都合だけ

祀るのは「利用した側」の都合だけ

日々の暮らしの中で、私たちは多くの命や道具に支えられています。

鶏肉、魚、包丁、時計 ─ それらがなければ生活は成り立たない。でも使った後や食べた後、それを意識することはほとんどありません。

弁天堂に並ぶ供養碑は、そうした“日常の裏側”を可視化しています。忘れられたはずのものが、ここでは“ありがとう”と共に石に刻まれている。

でもその行為は、感謝というより「忘れるための儀式」に近いのかもしれません。

消費して、忘れて、祀って終わらせる。その流れがあまりにも自然に組み込まれていることに、不忍池の静かな怖さがあると感じました。

何も異常はない。でも気づいた瞬間、どこか胸に残る違和感がありました。

怖いのは場所じゃなく、自分自身かも

怖いのは場所じゃなく、自分自身かも

不忍池を歩いていて、「明らかに怖い」と感じる瞬間はありません。でも弁天堂の供養碑をじっくり見ていると、ふと自分自身のことが怖くなってきます。

どれだけの命や道具を当たり前のように消費してきたか。どれだけの「ありがとう」や「ごめんなさい」を見なかったことにしてきたか。

この場所に並ぶ石碑は、そうした“自分が見過ごしてきたものたち”の集合体でもあるような気がします。

不忍池は心霊スポットではありません。でも自分の中にある“忘却と正当化の構造”を見せてくる場所でした。その意味では、やっぱりここは「怖い場所」なのかもしれません。

 

まとめ

不忍池は怖い?:弁天堂のスピリチュアルな空気を現地検証してみた

不忍池は昼間に歩くぶんには何の変哲もない、開けた公園でした。けれど弁天堂の周囲に立ち並ぶ供養碑を前にすると「ここには何かある」と感じずにはいられません。

それは霊的なものではなく、私たちの中にある“見て見ぬふり”の積み重ね。食べた命、使い捨てた道具、誰かの気持ち ─ 日常で消費して、忘れて、そして祀って終わらせてきたこと。

不忍池が静かに問いかけてくるのは、そういう“人間の都合”に対する自覚なのかもしれません。怖いのは場所じゃない。

怖さを感じたその瞬間に浮かび上がる、自分自身の輪郭こそが本当のスピリチュアルだったのだと思います。

編集後記

編集後記

今回は「不忍池が怖い」という噂の正体を探ってみるというテーマで記事を書きました。

ネットでこの噂について検索してみると幕末の歴史や怪談めいた話が並んでいますが、正直どれもピンときません。ただ「怖いと感じている人が一定数いる」という事実は興味深く、「じゃあ何がそう感じさせているのか」を探してみよう!ということに。

最初は過去に話題になった「ワニガメ出没」の影響かとも思ったのですが、今回歩いた範囲では関連する注意書きもなく、すでに駆除された可能性が高そうです。ではそれ以外に何があるのか。そんな中で注目したのが、不忍池にある弁天堂です。

とくに印象に残ったのは「鳥塚」でした。鳥を供養するための塚の上に、のんびり鳩がくつろいでいて、その正面には「鳥にエサをやらないで」と書かれた看板が立っている。あまりにもシュールで思わず笑ってしまいそうになりましたが、同時に人間の業の深さのようなものも感じました。

読んで「期待と違った」と思われた方もいるかもしれません。でも現地で見て、感じた違和感や気づきを大切にしたかった。だからこそ、今回はこういう視点でまとめさせていただきました。

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