千葉県流山市、鰭ヶ崎にある「死人坂」という坂道に、どこか気味の悪さを感じてしまった方へ ─ この記事は、そんなあなたの「この坂ってヤバい場所なの?」という疑問に答えるために書きました。
SNSでは心霊スポットとされる一方、現地は静かな住宅街で、坂の由来や意味が正しく語られていない状況です。
この記事では「死人坂」という名前がどうやって生まれ、なぜ今も地図にその名が残っているのかを、地形や土地の歴史と照らし合わせながら読み解きます。
読めば、この場所に込められた「ほんとうの意味」が、まったく違って見えてくるはずです。
流山市に実在する「死人坂」の由来とは?





JR武蔵野線「南流山駅」から徒歩10分ほどの場所にある「死人坂(しびとざか)」は、名前だけがひとり歩きしてしまったスポットです。
Googleマップでは確かにその名が表示されますが、現地には何の説明もなく、周囲は静かな住宅地。
SNSなどで「心霊スポット扱い」されていることに驚いた人が、真相を知りたくて検索する ─ それが実態でしょう。
よく語られる俗説に「昔、棺を運んでいたら坂で転がった」という話がありますが、坂の勾配からは、その情景を想像するのは、少し難しいように感じます。
むしろ「死人坂」という名前は事件性や逸話から生まれたものというより、「お墓へ向かう坂道」という意味合いだったと考える方が自然です。
死という言葉に過剰に反応してしまう現代とは異なり、当時はもっと「生活に近い言葉」として受け止められていたような気がします。
墓地へ向かう「坂」が名前を持った理由




そんな「死人坂」の真実ですが、すぐ近くにある東福寺の存在抜きでは語れません。東福寺は、平安時代の創建とされる地域の古刹(参考HP)。
境内の裏手およそ300m先には「奥の院」である千仏堂があり、そこには代々の住職や檀家の墓が並んでいます。
かつては本堂と奥の院が「地続き」でしたが、昭和40年代の区画整理で分断され、現在は道路に隔てられています。そして死人坂は、その「奥の院」へ向かう坂道です。
でもここで、少し違和感を感じてしまいます。東福寺の掲示では「死人坂」という表現は見られない。しかも本堂から奥の院へ向かう道が「死人坂」ならば、その坂は一直線なはず。
でもGoogleマップで見る「死人坂」は、北西の集落から奥の院へ向かう「逆L字型」をした坂。つまりこの坂、東福寺とは「別の人間が関係しているかも」ということです。
沼に囲まれた鰭ヶ崎という土地の成り立ち


では、それは誰なのか?─ そのヒントを、地形から考えてみます。東福寺があるのは、流山市の鰭ヶ崎(ひれがさき)という場所。
古地図を見てみると、鰭ヶ崎はまるで沼に突き出した岬のような地形で、かつては周囲を田んぼや湿地に囲まれていました。
つまり鰭ヶ崎は東福寺を中心に、ごく狭いエリアに集落が形成されていたと考えられるわけです。
実際、東福寺の案内にも「奥の院には代々の住職や檀家の墓があった」と記されており、古くからこの地で暮らしてきた人々が東福寺を菩提寺としてきたことがわかります。
しかし東福寺の境内は広大なので、集落から奥の院へ直接向かうルートが必要だったのかもしれません。「日常的な墓参り」なのか、「棺を運ぶ」ことなのか。
目的は色々あったと思いますが、死人坂は「集落の生活道路として作られた」可能性が見えてくるわけです。
「その坂の名前」だけが一人歩きした結果


かつて生活の中で自然に使われていた坂は、「死人坂」という名前だけが取り残されました。
「地形」という文脈を失った名前は、ネットで「怖い言葉」として消費され、静かな住宅街とはまったく異なる印象を与えています。
なお、この地域で「不思議に思うこと」がもう一つあります。それは人々が低地に住み、墓地を高台に造ったということ。
「高台に墓地」はわかりますが、一般的に人は水が来ない高台に集落を作るもの。でもこの地域では、水田に近い低地に集落がある。
かつて江戸川の水運で栄え、昭和50年代まで庚申信仰が残っていたという流山。この土地には、今の感覚では測れない価値観や信仰が、日常の中に残っていた可能性があるのかもしれません。
そう考えると、「死人坂」という坂の名も、暮らしの延長で自然に呼ばれるようになった ─ そんな気がしてきます。
※本記事には、現地観察や地形をもとにした筆者の考察を一部含みます。









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