「水城って、なんで作られたの?」─ そんな疑問をもった方へ。
教科書には「白村江の戦いのあとに築かれた」とだけ書かれているけど、なぜそんなに急いで「水の城?」を作ったのか、詳しい理由までは書かれていません。
この記事では古代日本が直面した「けっこうガチな国家の危機」と、当時のおじゃる達がそれにどう立ち向かったかをわかりやすく解説します。
そして実際に現地を歩いて見えてきた水城のリアルな姿も紹介。歴史と地形がどう繋がるのかを知ることで、地味に見えるこの土の壁が、どれだけ緻密に計算された防衛線だったかが見えてきます。
なぜ九州に「水城」がつくられたのか
百済の滅亡に「次は日本がヤベえ」と恐怖した

西暦663年、朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまいましたが、日本にとってそれは「対岸の火事」どころではない、大変ショックな出来事でした。
なぜなら当時の日本(倭国)は政治制度や建築技術、漢字などを百済から学んでおり、政治的にも文化的にも「弟分のような存在」だったから。
また百済は拡大を続ける唐に対して、まるで日本をかばってくれているような存在。つまり百済の崩壊は、日本にとって「次は自分がやられるに違いない」という恐怖に直結しました。
しかも百済が滅んだ際の戦い(白村江の戦い)には日本も朝鮮半島に軍を派遣しましたが、唐と新羅の連合軍にまったく通用せず大敗。日本中に危機感が広がります。
この瞬間から、日本はようやく「国防」という視点を持たざるを得なくなりました。
国を守るための緊急ミッションが発動された

白村江の敗北で「次は日本が狙われる」という空気が一気に広がりましたが、当時の日本にはまだ明確な国境もなければ、常備軍のような組織も存在していませんでした。
そんな中、政権中枢にいた「おじゃる達」は、もし唐が攻めてきたらどうするか?をようやく本気で考え始めます。
博多湾から敵が上陸すれば太宰府はすぐに落ちてしまい、そのまま大和(飛鳥)まで攻め込まれるのは時間の問題 ─ つまり速攻をかけられたら国が終わる、という状況だったのです。
そこで出されたアイデアが「太宰府でなんとしても時間を稼げ!」という作戦。
博多湾から上陸して侵攻してくる敵に対し、太宰府の手前に「物理的な壁」を築いて進軍を遅らせ、その間に本州側で兵力や体制を整える。これが「水城」に課せられた本当の役割でした。
恐怖が生んだ日本初の「防衛ライン」を構築


「太宰府でなんとしても時間を稼げ!」という方針のもと、日本は前例のないスピードで防衛線の構築が始まりました。
中心となったのは中大兄皇子(のちの天智天皇)で、このプロジェクトでは水城・大野城・基肄城(きいじょう)の三拠点がほぼ同時に築かれています。
なかでも水城は、博多湾から太宰府へ進むルート上で平野がもっとも狭まる地点に置かれ、その幅はわずか約1.2km。ここに巨大な土塁を築き、敵の進軍そのものを遮ろうとしました。
水城の構造は、長さが平野の幅と同じ約1.2km、高さ約9m。
濠には水が貯められていましたが、博多湾側の外濠は幅60mで深さ約4m、さらに太宰府側にも幅4.5〜10mの内濠があるなど、まさに「水の城」の名にふさわしい防衛設備に仕上げられていました。
「水城」と「大野城」が描いた国防のしくみ
「土の壁」と「山の砦」の3D防衛ネットワーク


ところで、「水城って単なる壁じゃね?」って思う人も多いでしょう。実際その通りで、水城はいわゆる天守や石垣を持つような城ではなく、「巨大な土塁の防壁」でした。
つまり現代的に言えば「城壁」や「モジャ長い雑木林」といった表現のほうが近いかもしれません。ではなぜ「城」と呼ばれたのか。それは、この時代にまだ「城という概念が存在しなかったから」。
つまり…、テキトーに名付けたんだと思います(知らんけど)。
でもこの地を歩いてみると、太宰府が本丸、水城が城壁、大野城や基肄城が櫓(やぐら)となって、この地域全体が巨大な城郭として機能していたことを体感できます。
つまり、自然地形をそのまま取り込んだ防衛システムを築いていたということ。これが、古代日本が生み出した「3D防衛ネットワーク」です。
「水城」を支え「水際」で戦う大野城の戦略

さて、水城とセットで語られることの多い「大野城」。太宰府の北西にそびえる四王寺山(標高410m)の山頂付近に築かれたこの山城は、水城とは異なり「攻撃」の役割を担っていたようにも見えます。
特に注目すべきは、その立地。敵が水城の幅60mの外濠を越えようと苦戦している間、大野城はちょうどその東側面に位置しており、高所から敵の動きを見下ろすことができます。
つまりこの場所に兵を置けば、水城に殺到する敵の横腹や背後を突いて奇襲を仕掛けることも可能になる。さらに状況によっては博多湾方面へ討って出て、敵の補給路を襲撃することも視野に入れられる。
これは攻撃側にとって、かなり厄介な存在になりえたはずです。水城と連携してこそ、大野城は「櫓」として真価を発揮できたと考えられます。
逃げ場のない大野城 ─ 太宰府を逃す覚悟の砦

そんな大野城ですが、実は退路を持たない「独立した山」に築かれていました。
つまり隣接する山に逃げ込めないため、劣勢になった時の脱出は困難。地形的に見れば、ここは「犠牲を前提とした時間稼ぎの拠点」だった可能性が高いということです。
仮に水城を突破しても、唐軍としては背後に大野城を残したまま太宰府へ侵攻するのは危険すぎるため、兵の一部を割いてでも大野城を落としに来るはず。
また唐軍本隊が太宰府へ向かったとしても、さらに南にある基肄城がその横腹を突ける位置にあるため、急襲をかけられる構図になっています。
こうした混乱で生まれる空白時間を利用して、太宰府の役人たちを日田・大分方面へと脱出させ、海路で大和(飛鳥)まで帰還させる。
つまり大野城は、「情報を持ち帰らせる」ための「覚悟の砦」だったのかもしれません。
現地を歩いてわかった「水城」のすごさ

JR水城駅を出ると、すぐ「水城跡」という看板が目に入ったものの…そこにあったのは、どう見ても「ただの草むら」。
地元の高校生がチャリで駆け抜ける横で、その草むらの写真だけを撮って先へ進むよそ者の自分。向かったのは、水城の土塁下にある「水城館」。
そこは駅から水城沿いに900mほどの距離のはず。でもその道中には御笠川が横切っているた水城沿いには進めず、結局大きく迂回して1.6kmも歩く羽目に。
でも…、あれ?つまり御笠川は敵の横移動を防ぐ「竪堀」の機能を持っているってこと??と現地で気付きました。
確かに、地図上では御笠川によって分断されている箇所が無防備にも見える水城。でも実際の御笠川は河岸が急で高低差もあり、天然の堀として十分な防御力を備えていたと考えられます。
水城館では大野城の展示も目立ち、「水城単体では語れない防衛網」だったことが伝わってきました。
そして何より印象的だったのは、上映されていた映像の多くが太宰府の紹介だったこと。水城はあくまで太宰府を守る存在であり、その役割は今も静かに語り継がれているのだと感じました。
※本記事には、現地観察や地形をもとにした筆者の考察を一部含みます。




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