都心へのアクセスもよく、新しい住民も増え続ける流山市。でも、その足元をゆっくり走る「ローカル鉄道」に、「いらないのでは?」という声があがっています。
本記事はそんな声に違和感を覚えた方や、街の変化に戸惑いを感じる方へ向けて書いたものです。
「流鉄流山線は本当にいらないのか?」という疑問を入り口に、鉄道の存在意義や廃止されない理由を、歴史・交通・景観の観点から読み解いていきます。
記事を読み終える頃には、目に見えづらい「街の基盤」が少し立体的に見えてくるかもしれません。
都心から一番近いローカル鉄道が「邪魔者扱い」されてしまう理由と、流山ならではの事情が見えてくるはずです。
流鉄はいまの流山市に必要なのか?
流鉄が生まれた時代と「流山の交通事情」

千葉県流山市。
今でこそ「子育てしやすい街」として話題ですが、かつては「水運の街」として栄えた場所。だからこそ流山市街は「江戸川」に面していますが、常磐線のような長距離路線の敷設にはやや不向き。
そんなこともあってか、常磐線は流山を避けるように通ってしまい、流山は事実上の「鉄道空白地帯」に。そのため「人の移動」が大きな課題となりました。
当時の地図を見ても、流山市街地から馬橋・松戸方面に向かう場合、広大な低湿地と水田地帯が行手を阻んでいます。
また北小金方面も、小金城址の台地が立ちはだかるため、流山はとにかく他の街へのアクセスが悪かった。そんな時に登場したのが「流鉄」です。
馬橋駅まで最短距離で人を運ぶこの路線は、流山にとってまさにライフライン。大正時代の流山では、これができたことで、暮らしの動き方が変わりました。
武蔵野線・TX開業で変わった「交通の地図」

ところが時代は進み、1973年に武蔵野線が開通、南流山駅が流鉄鰭ヶ崎(ひれがさき)駅の目と鼻の先に開業します。
これによって、運行本数の少ない流鉄は、馬橋〜鰭ヶ崎間で武蔵野線に多くの乗客を奪われる構図になってしまいました。そしてさらに時代は進み、2005年にTX(つくばエクスプレス)が開業。
TX流山セントラルパーク駅は、流鉄流山駅と1.4km程度しか離れておらず、バチバチに競合。しかも相手(TX)は、都心秋葉原まで一直線で行く最新の高速鉄道。これでは勝負になりません。
特に新しく流山に引っ越してきた人たちの移動は、武蔵野線とTXだけで完結してしまうようになりました。武蔵野線とTXによって、事実上全区間(馬橋〜流山)で存在意義が微妙になった流鉄。
これでは「もういらなくね?」といった声が出てくるのも無理はありません。
それでも流鉄が廃止されない理由
流山が抱える「地形と道路」のハンデ


流山市役所がある市街地エリアは、江戸川沿いの狭い平地にぎゅっと収まったような場所。なので地形的にも「交通に不向き」という宿命があり、特に江戸川にかかる流山橋付近は渋滞のメッカ。
こんな状況で「流鉄やめてバスでいいじゃん」は、通勤・通学の足が渋滞に巻き込まれ、定時性が損なわれる可能性があります。何より流鉄は、流山市に本社を置く「流鉄株式会社」が運営する鉄道です。
つまり民間企業が事業許可を得て運営している以上、外部から「やめろ」と言える立場ではありません。
なにより流山にとって、大正時代から共に街を支えてくれた盟友を「仮にいらない」とする場合、実は巨大なハードルがあるはずなんです。
それは「代替交通の確保」「雇用・産業問題」「鉄道施設の撤去」など。つまり、多くの面において「今のままがいい」という判断になるわけです。
江ノ電に通じる「街の魅力をつくる鉄道」


流鉄が登場した大正時代、当時はまだバスや大型トラックが珍しい時代でした。つまり当時は、「人も貨物も」鉄道で移動するのが一般的だった時代。
でも現代において、2両編成のローカル鉄道が「効率的な交通手段か?」と問われれば、全くそんなことはないでしょう。
馬橋から流山まで「エモいローカル鉄道」の事業許可を申請する者など、今後はおそらく現れないはずです。でも考えてみてください。
今から大正時代に遡って鉄道を敷設することもできないし、「流鉄のエモさ」は100年の歴史があるからこそです。
鎌倉から藤沢まで、湘南海岸を走る「江ノ電」、ご存知ですよね?
明治35年の開業なので、流鉄の14年先輩にあたりますが、江ノ電は「鎌倉・江ノ島観光のシンボル」として活躍しています。なので流山もあと14年頑張れば、「その価値」が見えてくるかもしれません。
ちなみに、長崎の路面電車は1年先輩

流鉄は1916年(大正5年)生まれですが、長崎の路面電車は1915年(大正4年)生まれの1年先輩。そんな先輩も「いらない!」という声に負けず、今も元気に頑張っています。
他の街の状況も気になる方は、ぜひ読んでみてください。




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